世界から顔が消えたなら

その人をその人たらしめるために必要な共通の記憶とは

些細なものであればあるほど……

日常的でありふれたことのなかで生まれたものほど……

代わりのきかない「その人らしさ」となって、周りの人の中に刻まれるのではないかなぁ、なんて思います。

逆もまたしかりで、自分にとってそういった記憶が多い人ほど、思い入れや愛着は強くなる。

そこには良いや悪いや上手や下手なんかはあんまり関係なくて

例えば

「うちのおかんのおにぎりはいつも大きくていびつな形で、ぽろぽろ崩れてくるから食べにくいんよね」

なんていう、なんならその人のちょっと苦手な面だったり、だらしなかったり、欠点に思われるようなことが、あとから思い返すとその人らしさを表していて愛おしさを増してくれたりするもんなんですよね。

そう思うと、やっぱり私は、素敵な暮らしや丁寧な暮らしなんてものよりも(結果的にそうだったら嬉しくはあるけれど)、素敵でなくても丁寧でなくても自分や家族が心地良いと思える暮らしがしたいなぁって思います。

そして、その暮らしの中で些細なやりとりを家族と少しでもたくさん交わしたい。

もしも世界から顔がなくなったら……その人をその人たらしめるものは共通の記憶。

家族と過ごす毎日の何気ない暮らしの時間こそが、私を私たらしめる一つ一つの要素になっている。

仕事、家事、子どもたちのお世話、人間関係、やりたいこと、やりたくないこと……

いろんなタスクを組み合わせて出来ている私の暮らしに優先順位をつけてタイムマネージメントするのも、本当に大事でもないことに心乱されることを減らすべくストレスマネージメントを大切にするのも、結局は家族との心地良い時間の足跡を少しでも多く残すためなんだなぁと再確認できるって話。

おわりに

訳の分からない妄想話から始まった今回の内容ですが、結局言いたいことは

毎日の暮らし以上に大切なものはないな

暮らしが私そのものを表すんだな

と妄想の果てによく思っています……ということ。

これはきっと多くの人に当てはまるのかと。

周りを見渡せば、その芝はどこまでも青く見えることがあるけれど、大切なものがちゃんと分かっていれば大丈夫。

自分の足元にも、今の自分にとって一番好ましい青い芝が広がっていることに気付けます。

キャリアアップに焦ることも

時に面倒で仕方がなくなる家事も

自分の未熟さを痛感する子育てにまつわるあれこれも

代わりのきかない「私」の一部。

ちなみに。

我が家の場合、顔を失ったりしてフィジカル面でお互いを認識できなくなっても

「これを質問して、こう答えが返ってきたら間違いなく私の家族」

と分かることがいくつもあります。

私と夫と子どもたち。

4人で過ごしてきた日々の思い出の中に、私たち以外には絶対に分からない共通の記憶がある。

その事実がうれしいなぁなんて思います。

***

↓顔が交換できる口紅にまつわるお話の漫画。『累』面白いです!!

スポンサーリンク




シェアする

フォローする

スポンサーリンク